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2013年1月7日月曜日

“サポーター”への書き初め


サッカーを愛する皆さま、ご機嫌いかがでしょうか。
年初という行事のなか、自分はといえば名古屋の実家に省り
ひさびさにゆったりとした時間を過ごしてまいりました。
酒を酌み、節を祝う。毛布にくるまり、読みたかったマンガを読む。
年ごとの習慣も集う人びとや時期が変われば、いつもと異なるものとして映り、
立ち上がる。今までも-そして、これからも-そうだったのかもしれません。
例えば、以下のような一節でさえも。

バスケットブームといわれている今日この頃ですが(92年12月現在)、ちょっと気になることがあります。確かに街にはNBAのウェアがあふれ雑誌やTVのCMにNBAのスターが登場し、ストリートバスケットという言葉も聞くようになりました。でも日本のバスケは?日本のバスケ選手の名前がパッとでてきますか?今のバスケ熱が日本のバスケの強化につながることを願っています。(井上雄彦「スラムダンク#11」)

およそ20年ほど前の、現在の巨匠のひとことに
自分はふと日本のサッカーのことを想いました。
サッカーブームといわれている今日この頃ですが(13年1月現在)、ちょっと気になることがあります。確かに街にはBPLのウェアがあふれ雑誌やTVのCMにLa Ligaのスターが登場し、ストリートサッカーという言葉も聞くようになりました。でも日本のサッカーは?
13年1月、日本のサッカーに、現状に、この問いを突きつけることは野蛮か。
こんなことを-名古屋の片田舎でひとり-夜な夜なひっそりと考えていたのです。

遡れば。井上氏のことばの翌年、日本ではJリーグが開幕し、
ヴェルディ川崎が初代チャンピオンに輝きました。
(思えば、欧州連合/EUが発足したのも、北朝鮮がノドン1号を試射したのも、
自民党による55年体制が崩壊したのも93年でした)
また、のちに「ドーハの悲劇」と呼ばれる喜劇によって、
日本のナショナルチームがW杯への初出場を逃したのもこの年です。
このように多くの兆しに満ちた93年を-ひとまずの-エポックとして見定めたとき、
現在の日本のサッカーは、またそれを取り囲う状況はいかなるものとして
立ち上がるのか。年始めなので、的を絞って簡潔にいきましょう。

例えば、現在Jリーグには40ものクラブがあり(J1-18クラブ、J2-22クラブ)、
それぞれのクラブには、とうぜん各クラブを応援する“サポーター”がいる。
“サポーター”とひとことでいっても、その立ち振る舞いはじつに様々で
生活や魂のすべてを己のクラブに捧げ続ける“コアサポ”から、
たまには「おらが村」のサッカーでも観てみようという“ライトサポ”まで
スタジアム、あるいはテレビ画面の前には毎試合、
「有象無象」の“サポーター”が存立している/いた。
しかし、この本来「有象無象」であったはずの“サポーター”たちが
時とともに精鋭化し、反共化してきているというのが私の実感です。

マルクス/エンゲルスの定義を引くまでもなく、共産主義(コミュニズム)とは
私有財産制への抵抗を基調としたイズムです。
いわば、個人による対象の私有化を防ぎ、そのプロセスが生み出す盲目に
光を射し当てるものだといえる。
日本のサッカーに置き換えれば、ナショナルチームやクラブの私有化に抗し、
サッカー自体への愛(!)に向けて、世界の意識を変革しようと願うイズムです。
しかし、このイズムが「チーム愛」のひとことで片付けられているのが
現在の日本のサッカーを取り巻く状況ではないか。
無知による反共化、そして、そこには対象がサッカーである理由など実はひとつもないのではないか。

自民党の圧勝によって幕を閉じた昨年の衆院選。
憂い、追い払うべきは左翼の敗北でも国家主導の右傾化でもなく、
国民ひとりひとりの反共化なのだとわたしは思います。
そして、反共化のために「日の丸」や「対外思想」といった
装置がいとも簡単に、また迅速に表象に組み込まれることを
-われわれは-歴史から、文献から知ることができる。
コマーシャルが技術と結びついたとき、妖しさは容易にひとを狂わせてしまう。
そう、以下の一文のように、です。

今日、高須さんといっしょに午後から神田の松竹映画劇場にゆく。今日封切りの「ハワイ・マレー沖海戦」を見るためである。(中略)劇場はおそるべき満員で、最初の一回は立見席で殆ど見ることが出来なかった。二回目には落着いて見ることが出来た。これは東宝がその航空映画に於ける本領を最高度に発揮したもので、海軍航空隊の攻撃魂が完成するまでの訓練過程を淡々たる劇に仕組み、最後に壮絶なハワイ・マレー沖海戦を展開する。特に、ハワイ海戦に於て、オアフ島の山脈をかすめ翼をそろえて翔け下りてくるわが攻撃機、ことし正月の新聞に出た海軍航空隊撮影の歴史的写真と寸分変らぬセットの見事さ、白い航跡を曳いて走る魚雷の突進、噴き上る米太平洋艦隊、それから、乱雲の中を飛びつづける味方編隊の彼方を、訣別の手をふりつつ機尾から一条の白い煙を曳いて自爆してゆく悲壮な犠牲の一機―など、日本人の心を奮い起さずにはおかない傑作であった。(山田風太郎「戦中派虫けら日記」)

だからこそ、ではありませんが、一つの旗のもとに忠誠を誓うこと、
そして、そのことによって他人との対話や範疇外の対象に対する思考を
停止させてしまうことに-今年も-自分は警鐘を鳴らしていきたいのです。
「地元」や「他クラブへの敵対心/無関心」自体が「日の丸」や「対外思想」の
矮小化されたものに過ぎない。
世界を見ずに日本だけを見る、他クラブを追わずに地元のクラブだけを追う、
そして、サッカー/歴史とは遠く離れた場所で「私だけの唄」を唄う。
このような無意識の積み重ねの果てに戦争があるのだ、と。
こうした「飛躍」を叩き台とした対話を、毎晩どこかで誰かと続けていきたいのです。

罪なくして投獄せられる国家にあっては、正しき者の棲家は牢獄である、とトーローはいった。この言葉とはニュアンスが違うが、たしかにいま全世界は狂っている。毎日の新聞を、ふと眼を洗って見ると、真に愕然とさせられるものがある。狂え、狂え、狂え!地球を覆う嵐の中に聞こえるのは、ただこの声ばかりである。崇高な狂人の話が毎日狂熱的にのせられる。自分は狂っていないと考えるものは黙っている。何かものをいいたければ、必ず狂ったことをいわなければぶじではすまない世の中なのである。(山田風太郎「戦中派虫けら日記」)

93年のJリーグ開幕時、ある種の「有象無象」として、
ヴェルディ川崎(旧・読売サッカークラブ)や
ジェフユナイテッド市原(旧・古河電気工業/東日本JR古河)を
見守っていた“サポーター”はいまどこで何をしているのでしょうか。
また、横浜フリューゲルス(旧・全日空横浜サッカークラブ)の“サポーター”は。
20年という月日が経ったいま、紆余曲折を経て
当時応援していたクラブの変容/消失を目の当たりにした“サポーター”の
-日本のサッカーへの-回帰をわたしは待ち侘びています。
そして、最後にその動機のひとつが「東京ヴェルディ」や「ジェフユナイテッド千葉」の
J1復帰なのだと今いちど強調しておきたい。(次の夜の叩き台として)
明白な旗色を持たないもの、いわばサッカーを愛する「有象無象」=労働者による
変革を年初よりもう一度信じてみたくなったのです。
-Jリーグが始まったばかりのあの頃のように-
国に、地元に、そして、クラブに、
「狂え!」と呼びかける情勢に流されることなく、ただただ中立であり続けること。
日和見や静観ではなく、積極的にサッカーに関するすべてを求め続けること。

労働者は祖国をもたない。かれらのもっていないものを、彼らから奪うことはできない。(マルクス、エンゲルス「共産党宣言」)

「サッカーブーム」、「反共化」、「クラブ愛」。それらが形作られたものならば、きっと-また-変えられるでしょう。

2013.1.6 今年も宜しくお願いします。

2012年6月21日木曜日

複数のシェフチェンコ


ドニェプルが ウクライナから すべての敵の血潮を 青い海へ おし戻すとき
わたしは 畑も山もすべてをすてよう 神のみもとに かけのぼり 祈りもしよう
だがいまは 神の ありかを知らない(タラス・シェフチェンコ「わたしが死んだら」)

シェフチェンコとは誰か。
多くのウクライナ人にとって、この問いには二つの答えがあるという。
ひとつは「詩人のタラス・シェフチェンコ」(1814-1861)。
宇都宮徹壱の「シェフチェンコ 誇りを胸に」によれば、
「帝政ロシアに抑圧された、自民族の悲哀を詠った」この詩人の名は
今やキエフのメインストリートにも刻まれており、
「市内には彼の銅像も記念館もある」そうだ。
つぎに「サッカー選手のアンドリー・シェフチェンコ」(1976-)。
ウクライナのサッカー史上、最も多くの得点を重ねた彼のことを
ひとびとは敬意を込めて「ウクライナの矢」または「シェヴァ」と呼ぶ。

シェフチェンコには「ウクライナの矢」(これは元々、かつての欧州最優秀選手で、現ウクライナ代表監督のブロヒンに与えられた愛称である)の他に、「シェヴァ」という彼特有の愛称がある。「シェヴァ」は彼の名前、「Shevchenko」から来ている。頭を取り、少し訛って「シェヴァ」。実はその「シェヴァ」が、ヘブライ語で「7」を意味するという(山田貴史「背番号7のエース」)

シェヴァとブロヒンという二本の「矢」が他国に向けて放たれる。
大会を前にウクライナのひとびとが思い描いていた
絵図の鮮やかさは想像に難くない。
自国開催、EURO本大会初出場、シェヴァ最後の代表戦という
画材を加味すればなおさらに、である。
そして、2012年6月11日のグループリーグ(以下、GL)初戦、
ハイライトは突然に訪れた。
この日、キエフのオリンピック・スタジアムで
スウェーデン相手に彼が決めたふたつのゴールは、
すぐに世界へと広がり、やがて語り草となった。


(リンク切れの場合は右のリンクを参照→http://www.ffu.org.ua/ukr/fans/video/106/

例えば、日本への伝わり方はこうだ。「“35歳”のシェフチェンコがふたつのゴールを挙げて、勝利に貢献したそうだ」、「試合後のインタビューで彼は“20歳になったみたいだよ”と言ったらしい」。
http://bit.ly/OlTGMs
試合の当日から翌日にかけて、twitter上で一時「シェフチェンコ/Shevchenko」というワードがトレンドになるほどに、多くのひとびとが「ウクライナの矢」に見とれ、その軌跡を誉めたたえた。まるで「人生の疲労は年齢には関係がない」といった安吾(「いずこへ」)の言葉などなかったかのように。



インタビューの中で彼は何を語っていたのか。
試合後、何人かの知人に尋ねたところ、およそ次のような答が返ってきた。
「問題の“Сегодня я помолодел на 10 лет”という部分、
すなわち、“20歳になったみたい”と訳された部分だが、
それよりも“Today I am 10 years younger”つまり、
“今日、わたしは10歳若返ったようだ”と訳した方が正確だ」。
「次の“Из-за травмы колена”という部分も
同様に“Due to a knee injury”、“膝の怪我のため”」と。
(インタビューの全文/原文は右のリンクを参照→http://bit.ly/NcSHfe
“10年前”といえば、ちょうど彼が最初の膝の怪我から復活を遂げた頃である。

2002-03年のシーズンは、最悪のコンディションで迎えることになった。欧州チャンピオンズ・リーグ(以下、CL)予選、チェコのスローヴァン・リベレック戦で受けたケガが原因だった。診断は、左ひざの関節間軟骨に問題があるということだった。74日間の入院を命じられたが、ピッチに戻ってきたその日に、早くもゴールを決めた(エンツォ・カターニア「シェフチェンコ ACミランと共に」)

上のキエーボ戦でのゴールの後、シェヴァは徐々にコンディションを取り戻していった。
同書にはその過程がミランのフィジカルコーチ(ダニエーレ・トニャッチーニ)の言葉とともに強調されている。
「ジャンプ力の測定に、垂直飛びというテスト項目がある。
以前は50センチしか跳べなかったアンドリーも、今は60センチに届くほどだ」。
復帰後、以前よりもヘディングでのゴールが増えたことを引き合いに
彼の「維持管理」の徹底さを報じる記者もいたという。
そして、ハイライトはシーズンの終盤に訪れた。
CLのGL、レアル・マドリード戦(@サンシーロ)。
そこで挙げたゴールによって、彼はロッソネーリの伝説となった。



もちろん、これらはひとつの見方に過ぎない。
「GLのゴールよりも決勝のユベントス戦で決めたPKの方が意義深い」、
「いや決勝後のスーパーカップ、ポルト戦での決勝点の方が印象に強い」など
ティフォーゾによって、記憶の明度は様々であろう。
続く2003-04シーズン、
彼がセリエAの得点王となってチームを優勝に導いたことも、
その年のバロンドールに輝いたことも、
また“20歳”の彼がウクライナ代表での初ゴールを決めたことも、
総じてそれらは誰かにとってのハイライトであるに違いない。
だからこそ、逆説的に言おう。
ハイライトはひとつではない。だからこそ、誰にでも見立てることができる。

若さ=“20歳”の押し売りと同時に、日本の「シェヴァ」をもアイドルに仕立て上げる。
http://bit.ly/Md8JJ3
以前、「ク・ジャチョルのパンツ」を書いた頃から
国内のサッカージャーナリズムは何も変わっていない。
「だが、現状を嘆くよりも」見立てを変え続ける方が「はるかに実践的であろう」。
大文字の“メディア”がかつての役割を終えたいま、要されるのは間隙を縫う手つきに違いない。
縫い方は歴史が、矢の引き方は複数のシェフチェンコたちが教えてくれる。

シェフチェンコとは誰か。
わたし/あなたにとって、この問いには無数の答えがある。
そのうちのひとつ、「詩人のタラス・シェフチェンコ」。
冒頭に添えた詩には以下のような続きがある。

わたしを埋めたら くさりを切って 立ちあがれ 
暴虐な敵の血潮と ひきかえに ウクライナの自由を かちとってくれ
そしてわたしを偉大な 自由な あたらしい家族の ひとりとして 忘れないでくれ
やさしい ことばをかけてくれ(タラス・シェフチェンコ「わたしが死んだら」)

2012年6月19日のGL最終戦、
幻と消えたデビッチのゴールが認められていたら、
その後、シェヴァが再び試合の決着をつけていたら、
「すべての敵の血潮」は「青い海」へと、おし戻されたのだろうか。
問いに対して、わたしは否と答えたい。
祖国の独立にもオレンジ革命にも立ち会えなかったタラスと同様に
アンドリーもまた女神の「みもとにかけのぼ」ることは叶わなかった。
だが、歴史を辿ったとき、それは同時に「自由」を巡る闘争の継続を
来たるべき革命の反復を意味する。
その瞬間まで複数の見立て=差異を持ち続けること。
答え/ヒントは論旨に分配できたはずだ。
そして、その手つきはすべてシェヴァから学んだものである。


シェヴァの幸運と健康を感謝とともに心より願う。 2012.6.21


【主要参考文献】

わたしが死んだら―シェフチェンコ詩集 (1964年)
わたしが死んだら―シェフチェンコ詩集 (1964年)

シェフチェンコ (COSMIC MOOK サッカーベストシーン 5)
シェフチェンコ (COSMIC MOOK サッカーベストシーン 5)

シェフチェンコ―ACミランと共に
シェフチェンコ―ACミランと共に

サッカーベストシーンシェフチェンコ[DVD] (<DVD>)
サッカーベストシーンシェフチェンコ[DVD] (<DVD>)

風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)
風と光と二十の私と (講談社文芸文庫)

2012年5月14日月曜日

김동현「서문」(金東賢「序文」)

며칠전이다. 
数日前のことである。
선배에게서 한통의 전화가 왔다.
先輩から一通の電話が鳴った。
"구자철의 세레모니는 무엇을 의미하는 것이냐"
“ク・ジャチョルのパフォーマンスは何を意味していたのか”
선배의 말투는 늘 그렇듯 무미하고도 건조한 것이었고
나는 밥을 먹다 말고 질문에 대한 간단한 답을 했다.
先輩の口調はいつものように、無味かつ乾燥したものであった。
食事を取っていた私は、(問いに関して)簡潔に答えた。
"구자철에 대한 글을 좀 써볼까 해서 말야. 암튼 고맙다"
“この件に関する文章を書いてみようと思って。とにかく、ありがとう”
그 말을 남긴 채 그는 전화를 끊었다. 
そう言い残して、彼は電話を切った。
그로부터 이틀쯤 지났을까, 그의 페이스북에 하나의 글이 올라왔다.
'구자철의 팬티'라는, 전형적인 '찌라시'적 구조의 타이틀이
붙어있는 그 글을 전형적인 '찌라시' 구독자인 나는 읽지 않을 수 없었다.
それから、2日後ほどのことであっただろうか、彼のfacebookにひとつの文章がアップされていた。
『ク・ジャチョルのパンツ』という、典型的な「チラシ」の文句。
その内容を典型的な「チラシ」の購読者である私が読まないわけはなかった。
내용은,
내가 상상한 그것 이상이었다.
内容は私が想像していた以上のものであった。
중심주의라는, 문학을 즐기는 사람에겐 그야말로 비이상적인 현실에 
대한 비판을, 그는 구자철의 팬티로 날을 세웠다. 다카하시 유지의 글을
인용한 것은 아주 우연한 타이밍이었을테지만 그야말로 적확한 것이었다.
中心主義という、文学を嗜む者にとって非理想的な現実を、彼は『ク・ジャチョルのパンツ』をもって批判しようとしていた。
高橋悠治の文章の引用は、それこそ偶然のタイミングであったに違いない。
しかし、その引用は(必然かつ)的確なものであった。
오랜만에 번역을 하고 싶어졌다. 바빴던 지난 평일엔 손댈 수 없었고
또 지독한 감기로 코가 헐 정도로 아픈 주말을 보내고 있지만 이것은
분명 번역할 만한 가치가 있는 글이다.
久しぶりに翻訳をしたくなったが、先週の平日は多忙のため取りかかることができなかった。また、現在もひどい風邪で鼻が腫れるほど痛い週末を過ごしているが、これは確かに翻訳する価値がある文章だ。
오래 전부터, 나는
이런 류의 서브컬쳐가 접목된 스포츠컬럼을 쓰고 싶었다.
그러나 용기와 지식이 결여된 컬럼은 아니 쓰는 것만도 못하다
여겨 접근조차 하지 않았던 것이 사실이다.
以前から、私はこの種の(サブカルチャーを絡めた)スポーツコラムを書きたいと思っていた。しかし、勇気と知識が欠けていたせいで、書くことも近付くことさえもしていなかったのが事実である。
선배의 글은, 그런 의미에서 하나의 이정표라 할 수 있겠다.
그것이 나에게 있어서든, 진정한 의미의 '찌라시'들이 난무하고 있는
전세계의 미디어에 있어서든.
そうした意味でも、先輩のこの文章はひとつの節目となろう。わたしにとっても、文字通りの「チラシ」が飛び交う世界中のメディアにとっても。
좋은 글을 써준, 그리고 '이 글이 탄생한 것은 김동현의 덕분'
이라며 흔쾌히 번역을 허락해준 Kuno Takahiro에게 감사한다.
良い文章を書き、"これが書けたのは、キム•ドンヒョンのおかげ"
と言いながら、快く翻訳を許可してくれたKuno Takahiroに感謝したい。
번역 자체로도 굉장히 힘들었다. 다소 어색한 부분을 매끄럽게 하지
못한 본인의 능력을 탓하고 있다. 그러나 전체적인 맥락을 파악하기에는
부족함이 없도록 최선을 다하였으니 부디 읽어주길 바란다.
翻訳自体、とても大変だった。ぎこちない部分をあまり滑らかにできなかった自身の能力を責めてもいる。しかし、全体的な脈絡を把握するには不足がないように最善を尽くしたので、是非お読みください。

本文:金東賢
→日本語訳:久野嵩大

「ク・ジャチョルのパンツ」日本語・・・http://sayonarahooligan.blogspot.jp/2012/05/blog-post_08.html
「구 자철의 팬티」일본어・・・http://sayonarahooligan.blogspot.jp/2012/05/blog-post_14.html

구 자철의 팬티


그저께 밤, 매우 오랜만에 다카하시 유지(현대음악의 세계적 거장이자 작가로서 존 케이지, 사카모토 류이치 등에게 영향을 끼친 대표적 인물, 역주)의 『콜렉션 1970년대』를 다시 읽었다.이 앤솔로지는 읽을 때마다 느낌이 바뀐다.
특히 제3장 ‘살기 위한 노래’의 완성도는, 아무리 머리를 굴려보아도 글과 말로는다 표현할 수 없다. 
마치, 나의 이해를 가볍게 내치는 듯한 그런 부드러움이그의 이론에는 있다.
예를 들면, 다음과 같은 구절.

「이 100년간 일본의 음악은, 유럽을 향해있다. 유럽의 감성, 기술, 미학을 수입하여, 국내판 제품으로 가공하는 것은 작곡가의 일이다. 그 과정은 가속화되었고, 세련되었으며, 종국에는 유럽으로의 가공제품의 역수출까지 가능해졌다. 일본의 현대음악은 국제적 수준에 달한 것일까. 과연, ‘국제적’이라는 것은 무엇인가. 현대 일본의 작곡가들의 활동원리는 무엇인가. (제3장 개인의 이론을 배제하다 中)」


유럽중심주의에 대한 비판,
밀실음악비평에 대한 비판.
이 책의 표지에는, 간결한 이 단어들이 곁들여져 있다.
하지만 반복하여 읽는 동안, 당연한 사실을 문득 느낄 수 있었다.
이것은 중심주의에의, 밀실비평에의 비판서이다.
유럽과 음악이라는 장식은, 그저 ‘접사’에 불과하다.

아우구스부르크 vs 함부르크SV(2012년 5월 5일)

어제 아침, 이 동영상을 보았다.
「35' [1 - 0] 구자철」
동영상의 제목은 아시아인에게 있어 흥미를 끌만한 것이었다
(혹은 ‘호소가이 하지메는 선발 풀타임’ 이라는 서브 타이틀도)
하지만, 아무리 보아도 동영상의 의미를 알 수가 없었다.
골을 넣은 후, 자신의 팬츠를 보이며, 하늘을 향해 손가락을 치켜든
구자철은 과연 무엇을 어필하려고 한 것인가.
떠오른 의문을, 후배에게 물어 보았다.

김동현에 의하면 구 자철의 팬티에 쓰여져 있던 글은, 
‘고인에 대한 명복을 빕니다’ 라는 메시지였다고 하며, 
그 고인이라는 것은 이 시합으로부터 정확히 1년 전, 
의문의 자살로 세상을 떠난 윤기원이라는 축구선수라고 한다. 
(구자철 자신은 시합후의 인터뷰에서 메시지에는 세 가지의 사건에 대한 것이라 언급했다:http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=107&oid=112&aid=0002295267 ,역주)
생전, 윤기원에게는 승부조작에 대한 혐의가 씌여져 있었고, 한국 국내에서는 
자살의 원인을 승부조작에 대한 관여에 대한 것이라 보는 시각이 많았다고 한다.

어제 오후, 후배에게서 들은 이야기를 토대로 윤기원의 자살과 구자철의 메시지에 대해 
조사해보았다. 
위키페디아, 중앙일보, 개인 블로그 등 윤기원에 대한 소스는 적지 않게 존재했다. 
하지만, 아무리 찾아보아도 구자철의 메시지에 대해서는 (일본어) 소스는 찾기가 어려웠다. 
마치, 구자철의 세레머니따윈 애초에 없었던 듯한 착각을, 일본의 미디어는 우리에게 주고 있었다. 말하자면, 한국인 선수가 나타낸 그 추도의 세레머니보다도 이탈리아인 선수의 감사의 세레머니나 스페인인 감독의 석별 세레머니를 (스토리로서) 우선하여 보도하고 있다. 이것이 일본의 스포츠미디어의 현 상황이다. (“나 본인도 또한 미디어이다”)

내가 조사한 바에 의하면 K리그를 덮친 승부조작의 어둠은 상당히 깊은 것이었다.
위키페디아에 의하면 승부조작에 관여한 감독/선수는 국민체육진흥법 위반 및 사기죄로 
기소되었고, K리그에서 영구추방을 포함한 상당한 처분이 내려져 있는 상태이다. 
(링크해둔 사건의 경위에 있듯, 윤기원의 자살이 이 소동의 불씨가 되었다는 의견도 있다) 
그리고, 이것들의 소동이 결코 과거의 일 = Accident가 아닌, 현재 진행형의 일, Incident 인 것은 말할 것도 없다.

어제 밤, http://bit.ly/JbqWW5 이 사이트에서 앞서 말한 시합에 관한 기사를 발견했다.
「2012年05月06日 00:55」
송고 일시는 그저께의 새벽 (즉 시합이 끝난 직후)
정확히 내가 『콜렉션 1970년대』를 읽고 있었을 때다.
(기사의 타이틀은 「호소가이가 올시즌 분데스리가 일본인 최다인 32시합 출장, 아우구스부르크는 3경기만의 승리」)
물론, 기사에 구자철의 어필에 대한 언급은 없다.
유럽에서 활약하는 일본인 선수, 기사에 사용된 것은 
이미 흔하디 흔한 그 ‘구조’뿐이었다.
그러나, 읽어가는 도중, 나는 무언가를 느낄 수 있었다.
기사에 첨부된 사진. 그것은 분명 구자철의 메시지를 담(아 버리)고 있었다.
‘고인의 명복을 빕니다’










오늘 아침, 나는 컴퓨터 앞에서 다카하시 유지의『콜렉션 1970년대』를 읽고 있었다.
이 앤솔로지는 읽을 때마다 나의 사고(思考)를 정리시켜준다.
특히 제3장 속의 ‘개인의 논리를 배제한다’의 날카로움은, 아무리 머리 속의 준비를
하고 읽어도 도저히 다 담기 어렵다. 그렇다면, 그것을 거스르지 않고 그 흐름에
몸을 맡겨 보는 것은 어떨까. 언제부터인가 그렇게 생각하게 되었다.
‘유럽의 감성/기술/미학을 수입하여 내수용 제품으로 가공’하는 ‘작곡가’.
다카하시 유지가 비판하고 있는 것은, 그들의 ‘꼼수’ 이외엔 없을 것이다.

그들의 대표자가 「우리들의 청각을 막는 경계가 이 세계에 있을 리 없으니, 서구와의 비교라는 낮은 레벨의 이유로서가 아니라, 민족 고유의 감수성에 의해 길러진 음악을, 새로운 것으로 받아들이는 것이 더 중요하지 않을까」(다케미츠 토오루, 다카하시 유지와 동세대의 인물로 일본이 낳은 세계적인 현대음악작곡가 겸 수필가, 역주)라고 말할 때、유럽의 자원을 가져오던 레벨에서부터, 유럽적 기술유출을 담보로 한 아시아문화의 수탈이 이뤄지는 레벨로, 일본의 음악이 진입한 것은 아닌지 의심할 필요가 있다.
지상에 울려 퍼지는 여러 가지 소리들을 하나의 생명으로서 표현하려는 것은, 모든 것을 사유하려 하는 자본주의적 욕망의, 그야말로 잘 알려진 꼼수이기 때문이다. (개인의 이론을 배제하다 中)

◯◯◯은 만국공통어, 라는 슬로건.
이 슬로건을 방패로 내세운 ‘제 3세계’로의 침공.
두가지의 행위가 동시에 실천되는 것을
(나는) 전쟁이라고 불러오지 않았던가.
이 ‘꼼수’에 대한 저항은 오직
‘고전적인 전술뿐이다’라고 다카하시는 말한다. 

개인의 이론 추구를 위한 집단 대신, 집단의 이론에 선 개인의 연대, 특히 대중과의 연대, 일방적인 지식의 수탈 대신에 상호 학습, 고독한 권위 대신에 젊은 세대를 지도하기 위한 각 세대의 엘리트들의 결합, 공유제의 사유화 대신에 무명성의 추구, 기술로의 맹목적인 종속 대신 최소한의 기술의 최대한의 이용, 진보의 이름으로 이뤄지는 낡은 것들의 연명 대신 기본적인 관계에 대한 재검토. (개인의 이론을 배제하다 中)

상황의 확인과 ‘전술’의 제안.
뛰어난 코치 같은 손놀림으로 다카하시 유지는 ‘연대’의 실천을 촉구하고 있다.
그리고, 이 부분에 와서야 (또 다시) ‘당연한 것’을 문득 느꼈다.
이것은 ‘중심주의’에의, ‘밀실비평’에의 비판서이다.
접사를 고르고, 실천하는 것은 나 그리고 당신이다, 라는 것을.

지금 나는 컴퓨터 앞에서
구 자철의 메시지에 대해 생각하고 있다.
아직까지도, 그의 어필에 관한 (일본어) 소스는 찾을 수가 없다.
하지만, 현 상황을 개탄하기보다는 펜을 드는 편이 더욱 실천적일 것이다.
축구는, 만국의 공통어이다, 이 메르헨 (비일상적인 이야기: 역주)에게 있어
옆 나라에서의 절규는 그저 소음에 불과할 테니까.
(이 메르헨이 ‘중심주의’자에 의한 픽션이라면 더더욱.
예를 들면 http://amzn.to/cnT3Lq 처럼: 

픽시라 불리는 구 유고슬라비아의 스타이자 J리그의 레전드인 스코이코비치의 팬이었던 작가가, 스스로 당시 NATO의 포성이 난무했던 발칸 반도의 축구와 정치상황의 관계를 생생히 그려낸 책으로서 현재에도 높은 평가를 받고 있는 일본 축구서적 명저 중 하나, 역주)
외견상으론, J리그에 종사하는 ‘작곡가’들의 퀄리티는 상당히 높다.
프로리그 발족으로부터 20년 만에, 이 정도로 ‘유럽적 기술 유출’
을 이뤄낸 나라는 그다지 많지 않을 것이다.
하지만, 그와 동시에 ‘기술’의 진보와 수탈에의 욕망이
항상 존재하고 있다는 사실 또한 간과해서는 안 된다.
(구체적인 언급은 피하나, 이미 그 징후는 보이고 있는 상황이다)
‘자본주의적 욕망’의 ‘꼼수’에 편승하지 않을 것.
‘빅클럽 > 스몰클럽 = 프로빈쳐(가난한 클럽을 일컫는 이탈리아어, 역주)
라는 암시에 혹하지 않을 것.
그러기 위해서 귀를 기울여야 하는 것은 ‘제3세계’로부터의 찬가도,
유럽에서 날아오는 ‘슬픈 노래’도 아닌,
이웃나라에 울려 퍼진 ‘추모곡’ 일 것이다.
‘고인의 명복을 빕니다’
이 노래가 메르헨이 아니게 될 때, 분명 어둠은 사라질 것이다.

2012年5月8日火曜日

ク・ジャチョルのパンツ


一昨日の夜、ずいぶんとひさしぶりに
高橋悠治の『コレクション1970年代』を読み返した。
このアンソロジーは読むたびに趣が変わる。
特に第三章「生きるための歌」のよさは、
どれだけ頭を働かせてみても筆舌に尽くしがたい。
まるで、こちらの理解を跳ねのけるような
そんなしなやかさが、同氏の論理にはある。
例えば、次のような一節。

ここ百年ほどの日本の音楽は、ヨーロッパを向いている。ヨーロッパの感性・技術・美学を輸入して、国内向けの製品に加工するのが作曲家のしごとだ。その過程は加速され、洗練されて、ついにはヨーロッパへの加工製品の逆輸出さえ可能になった。日本の現代音楽は国際的水準に達したのだろうか。一体、〈国際的〉とは何か。現代日本の作曲家たちの活動原理は何か。(「個の論理を排す」)

「ヨーロッパ中心主義」への批判。
「密室の音楽批評」への批判。
同書の帯書きには、簡潔な言葉が添えられている。
だが、何度も読んでいるうちに、アタリマエのことに気付かされた。
これは「中心主義」への、「密室の批評」への批判書だ。
「ヨーロッパ」や「音楽」という飾りは接辞に過ぎない。

アウクスブルク 1-0 ハンブルガーSV(2012/05/05)


昨日の朝、以下のサイトの中で
http://footballingtube.blog93.fc2.com/
リンク先の動画を見つけた。
「35' [1 - 0] 具滋哲(ク・ジャチョル)」
動画の見出しはアジア人にとって興味を引くものだと思う。
(あるいは「細貝萌は先発フル出場」という小見出し)
だが、覗いてみてもイマイチ意味が掴み取れない。
ゴールのあと、自らのパンツを示し、天を指さしながら
ク・ジャチョルはなにをアピールしていたのか。
浮かんだ疑問を、そのまま後輩に尋ねてみた。

金東賢 http://www.facebook.com/miguel.kim.9 によると
ク・ジャチョルのパンツに書かれていたのは
「故人のご冥福をお祈りします(「고인의 명복을 빕니다」)」
というメッセージだったらしく、その故人というのは
同試合のちょうど一年前に謎の自死を遂げた
尹基源(ユン・ギウォン) http://bit.ly/imkMHZ というサッカー選手らしい。
(ク・ジャチョル自身は試合後のインタビュー http://bit.ly/KsF4Ng
メッセージには「3つの手向け先があった」と語っている)
生前、ユン・ギウォンには八百長の嫌疑がかけられており、
韓国内では自死の原因を八百長への関与に求める声も多かったそうだ。

昨日の昼、後輩から聞いた話をもとに
ユン・ギウォンの自死とク・ジャチョルのメッセージについて調べてみた。
ウィキペディアに中央日報、個人ブログと前者についてのソースは少なくない。
だが、どれだけ調べても、後者についての
(日本語の)ソースが見つからない。
まるで、ク・ジャチョルのアピールなどなかったかのような錯覚を、
日本のメディアは与えてしまっている。
言わば、韓国人プレーヤーが表した追悼の意よりも、
イタリア人プレーヤーの謝意やスペイン人監督の惜別の意を
(物語として)優先し報道する。
これが日本のスポーツメディアの現状である。
(“わたしもまたメディアである”)

調べたかぎり、Kリーグを覆う八百長の闇はかなり深い。
ウィキペディア http://bit.ly/qReMvg によると
八百長の嫌疑をかけられた監督/選手は
「「国民体育振興法」違反および詐欺罪で起訴され、
Kリーグからは永久追放も含めた厳しい処分」が課せられている。
(リンク先の「事件の経緯」にあるように、奇しくもユン・ギウォンの自死が
騒動のトリガーになったという見方も取れる)
そして、これらの騒動が決して過去のできごと=アクシデントではなく、
現在進行形のできごと=インシデントであることは言うまでもない。

昨日の夜、以下のサイトの中で
http://bit.ly/JbqWW5
前述の試合に関する記事を見つけた。
「2012年05月06日 00:55」
配信の日時は一昨日の深夜(試合の直後)、
ちょうど、わたしが『コレクション1970年代』を読み返していた頃だ。
(見出しは「細貝が今季のブンデス日本人選手最多の32試合に出場…
アウグスは3戦ぶり勝利」)
むろん、記事の中に先のアピールへの言及はない。
ヨーロッパで活躍する日本人選手、用いられているのは
いまや紋切り型と化したこの構図だけだ。
だが、読み進めているうちに、とあることに気が付いた。
記事の横に添えられた写真、それはたしかに
ク・ジャチョルのメッセージを捉えて(しまって)いる。
「故人のご冥福をお祈りします(「고인의 명복을 빕니다」)」










今日の朝、わたしはPCの前で
高橋悠治の『コレクション1970年代』を読み返していた。
このアンソロジーは読むたびに思考が整理される。
特に第三章内の「個の論理を排す」の鋭さは、
どれだけ強く構えてみても受け止めがたい。
ならば、いっそ逆らわず、その流れに身を預けてみよう。
いつしかそう思うようになった。
「ヨーロッパの感性・技術・美学を輸入して、
国内向けの製品に加工」する「作曲家」。
同氏が批判していたのは、彼らの「手口」に他ならない。

かれらの代表者が、「私たちの聴覚を拒む境界が地上にあろう筈はないのだから、西欧との対比というような低い意味合いにおいてでなく、民族の固有の感受性によって育った音楽を、新たなものとして聴くことが大事なのではあるまいか。」(武満徹)などと語るとき、ヨーロッパ資源の収奪の段階から、いまやヨーロッパ的技術輸出と見かえりにアジア文化を収奪しようとする段階に、日本の音楽がはいったのではないかとうたがうことができる。
「地上にひびくさまざまな声」を「ひとつの生命」の表現とするのは、すべてを私有しようとする資本主義的欲望の、よく知られた手口なのだから。(「個の論理を排す」)

◯◯◯は世界の共通語である、といった啓蒙。
このスローガンを盾とした「第三世界」への侵攻。
二つの行為が同時に実践されることを
(わたしは)戦争と呼んできたのではなかったか。
これらの「手口」に対抗する方法は
「古典的な戦術しかない」と同氏は続けている。

個の論理の追求のための集団のかわりに、集団の論理に立つ個の連帯、特に大衆との連帯、一方的な知識の収奪のかわりに、相互学習、孤高な権威のかわりに若い世代の指導する各世代の最良部分の結合、共有財の私有化のかわりに無名性の追求、技術への盲従のかわりに最小限の技術の最大の利用、進歩の名による古いものの延命のかわりに基本的諸関係の再検討。(「個の論理を排す」)

状況の確認と「戦術」の提案。
優れたコーチのような手つきで、同氏は「連帯」の実践を促している。
そして、ここまできて(またしても)アタリマエのことに気付かされた。
これは「中心主義」への、「密室の批評」への批判書だ。
接辞を選び、実践するのはわたし/あなたである、と。

現在、わたしはPCの前で
ク・ジャチョルのメッセージについて考えている。
相変わらず、彼のアピールに関する(日本語の)ソースは見つかっていない。
だが、現状を嘆くよりも筆を走らせる方がはるかに実践的であろう。
サッカーは世界の共通語である、このメルヘンにとって
隣国からの叫びはノイズに過ぎないのだから。
(このメルヘンが「中心主義」者によるフィクションであれば尚更に。
ユーゴスラビア人プレーヤーのアピールがどれだけ報道されたか思い出してみよう。
Ex. http://amzn.to/cnT3Lq

管見に触れるかぎり、Jリーグに携わる「作曲家」の質は相当に高い。
プロリーグ発足から20年余りで、これほどの「ヨーロッパ的技術輸出」を
行える国などそうそう見当たらないだろう。
しかし、それと同時に「技術」の進歩と収奪への欲望が
つねに表裏であることも見過ごしてはならない。
(具体名は伏せるが、すでに兆候は見えている)
「資本主義的欲望」の「手口」に乗らないこと。
「ビッグクラブ>スモールクラブ=プロヴィンチャ」といった
暗示に惑わされないこと。そのために
耳を傾けるべきは「第三世界」からの讃歌でも
ヨーロッパからの哀歌でもなく
隣国に捧げられた弔いの歌であろう。
「故人のご冥福をお祈りします(「고인의 명복을 빕니다」)」
その歌がメルヘンから逃れた時、きっと闇は消える。

韓国語ver.・・・http://sayonarahooligan.blogspot.jp/2012/05/blog-post_14.html
序文・・・http://sayonarahooligan.blogspot.jp/2012/05/blog-post_2508.html

2012年1月12日木曜日

ball.1 JリーグとTV放映(上)



サッカーを愛する皆さま、ご機嫌いかがでしょうか。
三が日が明け、各クラブの運営が動き始めるこの時期、
次々と発表される移籍のニュースにやきもきされている方も多いかと思われます。
来シーズン、あの選手はどこのクラブでプレイしているのか。
あの監督はどのような戦術でチームを指揮するつもりなのか。
加入が決まった選手はどのようなプレイを魅せてくれるのか。
パブに集まり、暖炉を囲みながら、サポーターたちが各々の持ち寄った噂話に
胸を弾ませることから、“ストーブリーグ”と呼ばれるこの時期も
サッカーの醍醐味のひとつであり、ともすれば、皆さまが酒場に集まるその夜ですら
リーグ戦の前の重要な一節なのかもしれません。
そのような時期の、酒の場の暖の燃料になればという願いを込めて、
今回はサッカーとTV放映という問題について考えたことを書いていきたいと思います。
さて、突然ですが、ここで視聴率に関する問題を3つ↓
それぞれの平均視聴率を大体で良いので考えてみてください。

①1993年5月15日(土)19時27分~/NHK総合/Jリーグ開幕戦(ヴェルディ川崎-横浜マリノス)
②2011年1月25日(火)22時20分~/テレビ朝日/アジアカップ2011準決勝戦(日本代表-韓国代表)
③2011年3月5日(土)14時02分~/NHK総合/Jリーグ開幕戦(名古屋グランパス-横浜マリノス )



さて、整いましたでしょうか。では、早速以下に正解を↓↓↓




①32.4%
②35.1%
③3.7%


まず、はじめに断っておきたいのは、上記の①から③の数値の単純な比較は難しい、ということです。
複数のチャンネルで同時刻にひとつのコンテンツを流す“多チャンネル時代”=現代において、
1チャンネルだけの視聴率をそのコンテンツの視聴率と認めるには無理が伴うでしょう。
実際に、上で挙げた①の試合がNHK総合の独占放送だったのに対して、
②と③の試合はそれぞれ②NHKBS1と③スカパー/e2/スカパー光といった
他のチャンネルでも同時に放映されています-中には携帯やPCから視聴される方もいるでしょう-。
つまり、それらすべてを同じ比率で集計し、合算した数値でなければ、
過去との比較は客観性を欠いてしまう、ということです。
とは言え、たとえこの問題を考慮に入れたとしても、過去の同リーグや代表戦に比べて、
Jリーグに関する視聴率の現況が悪化の一途を辿っていることは、疑いありません。
事実、ここ5年間の開幕戦だけに目を向けても、その数値はどれも惨憺たるものであり、
NHKやケーブルテレビを除く“民放”からJリーグが放送されなくなった、という感覚は
皆さまとも共有できるのではないでしょうか。

④2006年3月4日(土)15時55分~/NHK総合/Jリーグ開幕戦(ガンバ大阪-浦和レッズ)
・・・5.3%
⑤2007年3月3日(土)15時55分~/NHK総合/Jリーグ開幕戦(浦和レッズ-横浜FC)
・・・6.0%
⑥2008年3月8日(土)14時00分~/TBS/Jリーグ開幕戦(横浜F・マリノス-浦和レッズ)
・・・4.6%
⑦2009年3月7日(土)15時55分~/NHK総合/Jリーグ開幕戦(鹿島アントラーズ-浦和レッズ)
・・・6.4%
⑧2010年3月6日(土)14時00分~/TBS/Jリーグ開幕戦(FC東京-横浜F・マリノス)
・・・3.9%

開幕戦でこの数値ですから、その後のリーグ戦で更に数値が冷え込んでいくことは想像に難くないはずです。
そして、サッカーに限らず数値が取れないコンテンツを“民放”が取り置いておくことはほとんどないので、
結果、開幕戦と優勝のかかった最終戦以外は「一年に何度か観れたら御の字」といった時代が、ここ数年続いています。
(詳しくはJリーグの公式記録を参照)
こうした現状から民放を離れ、スカパーやBSなどの専門チャンネルと契約する方も多いと聞きます。
そして、中にはJリーグよりも海外のリーグに興味を注がれている方もいるかもしれません。
しかし、契約の存否や個人の趣向とは別に、
国内の民放でJリーグがどのように扱われているかを知っておくのも、無益なことではないでしょう。
現在、Jリーグというコンテンツはどのような時間に、どのような番組として構成されているのか。
テレビ放映上の海外との違いはなにか。
参考となる点や改善すべき点はないのか。
これらの問いをもとに(中)からは、具体的な番組に焦点を合わせて続けていきたいと思います。


*今年もどうぞ宜しくお願いします。


JリーグとTV放映(中)へ

ball.1 JリーグとTV放映(中)


さて、ここからは以下の番組に焦点を当てて分析を進めていきたいと思います。
2011年11月27日(日)1時58分~3時28分/MBS関西/Jリーグ第33節(ガンバ大阪1-0ベガルタ仙台)
まずは、同番組の構成を簡単に見ていきましょう↓
多少の誤差や不明点あり
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①~2分:1時58分-2時00分(CM)
栄養ドリンク(タケダ)→防寒インナー(アルペングループ)→携帯アプリ(LINE)→健康サプリ(Amway)→
カラオケ(DAM)→携帯(SAMSUNG)→ 栄養ドリンク(タケダ)→パチンコ(?)
②~5分:2時00分-2時03分(試合前の映像)
スタジアム映像→前節までの結果&ハイライトシーン/解説陣の紹介(元Jリーガー/芸人/アナウンサー)→フォーメーション紹介
③~20分:2時03分-2時18分(前半戦 試合開始-15分まで)
④~22分:2時18分-2時20分(CM)
携帯ゲーム(モバゲー)→ビール(SUNTORY)→防寒インナー(アルペングループ)→
ソーシャルネット(GREE)→DVD(TSUTAYA)→タイヤ(ブリヂストン)→携帯ゲーム(モバゲー)→CD告知(?)
⑤~27分:2時20分-2時25分(前半戦 21-25分まで*ゴールシーン)
⑥~30分:2時26分-2時28分(CM)
携帯ゲーム(モバゲー)→オートバイ(レッド・バロン)→弁当(セブンアンドワイ)→TVゲーム(SEGA)→
ビール(SUNTORY)→携帯ゲーム(モバゲー)→CD告知(?)→プリンター(brother)→映画試写会(?)
⑦~38分:2時28分-2時36分(前半戦 38分-前半終了まで)
⑧~40分:2時36分-2時38分(CM)
携帯(SAMSUNG)→タイヤ(ブリヂストン)→ウイスキー(SUNTORY)→携帯ゲーム(モバゲー)→
DVD(TSUTAYA)→スノボ(アルペングループ)→携帯ゲーム(モバゲー)→CD告知(?)→映画試写会(?)
⑨~42分:2時38分-2時40分(ハーフタイム)
スタジアム映像→前半戦のハイライトシーン
⑩~55分:2時40分-2時53分(後半戦 試合開始-12分まで*二川投入)
⑪~57分:2時53分-2時55分(CM)
携帯アプリ(LINE)→携帯アプリ(LINE)→化粧品(無印良品)→携帯ゲーム(モバゲー)→
ケーキ(セブンアンドワイ)→携帯ゲーム(モバゲー)→結婚式場(?)→映画試写会(?)
⑫~69分:2時56分-3時08分(後半戦 続きから25分まで)
⑬~71分:3時08分-3時10分(CM)
携帯(SoftBank)→ティッシュ(クリネックス)→携帯ゲーム(モバゲー)→美容(朝日美容外科)→
TVゲーム(SEGA)→防寒インナー(アルペングループ)→DVD(TSUTAYA)→
携帯ゲーム(モバゲー)→カラオケ(?)
⑭~74分:3時10分-3時13分(後半戦 33-36分まで)
⑮~76分:3時13分-3時15分(CM)
携帯ゲーム(モバゲー)→ タイヤ(ブリヂストン)→電化製品(ミドリ電化)→ビール(SUNTORY)→
携帯ゲーム(モバゲー)→ カラオケ(?)→携帯ゲーム(モバゲー)→映画告知(?)
⑯~90分:3時15分-3時28分(後半戦 続きから試合終了まで)
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
構成を見て、初めに目に付いたのはこの番組の尺が90分であるということ
そして、同日の14時から行われた試合の録画であるということです。
(上)に書いたことの繰り返しになりますが、現在のJリーグは“民放”にとって
もはや視聴率の稼げるコンテンツではなくなっています。
同日のMBSの番組表を見ても、13時23分~15時30分までは
『特選ミステリー劇場「税務調査官窓際太郎の事件簿18」』
15時30分~16時54分までは
『2011カシオワールドオープンゴルフ最終日』
が放映されており、これらの番組の方が『ガンバ大阪-ベガルタ仙台』よりも
数値を見込めるという目算が現代の基準のようです。
また、『ガンバ大阪-ベガルタ仙台』よりも優先された、
『特選ミステリー劇場』や『ゴルフ』といった番組がともに、
編集過程を経た後のコンテンツであるということも注視すべきでしょう。
3アウトごとに攻守交替の時間を挟む野球や、
1演技ごとに評価の時間を設けるフィギアスケートとは違って、
約束された空き時間が少ないサッカーは“民放”に不向きなスポーツだと思います。
なぜなら、サッカーにおいて基本的にハーフタイム以外の空き時間は
すべてアクシデントによるものだからです。
ケガや乱闘、停電や落雷など、それらが起これば、試合は中断されますが、
再開される正確な時間は誰にもわからない。
ファウルを受けてうずくまった選手が、次の瞬間、何食わぬ顔でボールをセットし
プレイを再開させるというシーンも皆さまにとってはお馴染みの光景でしょう。
しかし、“民放”側からすれば、空き時間が不確定なLIVEほど扱いづらいものはない。
上の①、④、⑥、⑧、⑪、⑬、⑮にあるように、“民放”の番組には、
スポンサーのCMが必ず挿入されていますスポンサーからの協賛金によってコンテンツが作られている、という現状がある以上、 CM の時間を削ることは不可能だと言えます)。
そして投資をしている以上、できるだけ視聴者が多い時間に
スポンサーがCMを流してほしいと思うのは自然なことです。
ですが、放映する側に立って考えてみれば、LIVE中に、スポンサーを納得させるタイミングに、CMを流すことは困難を要します
例えば、試合が中断され、ここだ!と思ってCMを流している間に、展開を左右するようなゴールが決まってしまったとしたら、そのCM/スポンサーの印象はネガティブなものになるでしょう。
だからといって、15分あるハーフタイムの間に一挙に流せるかと言えばそんなこともない。
スタジアムの観客と同様に、視聴者にとってもハーフタイムは休憩の時間であって、
チャンネルを変えたり、テレビを離れる確率が高い=数値が下がる時間に
CMを流すメリットはスポンサーにとっても少ないからです。
では、どのようなカタチであれば、“民放”でJリーグを放映することができるのか。
2011年11月27日(日)1時58分~3時28分/MBS関西/Jリーグ第33節(ガンバ大阪1-0ベガルタ仙台)とは、以上の問題を踏まえた上で、制作側がスポンサーとのコンセンサスを得れると判断し、放映されたコンテンツだと思います。そして、深夜に放映された理由も以上の問題が深く関わっていることでしょう。
同コンテンツの編集は、いち視聴者の感覚として、お世辞にも優れているとは言い難いものでした。解説陣の実況が録画用に録り直されたものではなく、LIVE時に録音されたものであったこと、CMが挟まれたあと、果たしてどこからどこまでがカットされた時間なのかが不明瞭であったこと、CMに切り替わる回数が多すぎてTV観戦に没入できなかったこと、など例を挙げればキリがありません。
しかし、単に不満点を挙げるだけでは現況は何も変わらないと思います。
ということで(下)では90分間の放映時間、うち計14分のCMという現況に合わせた番組構成の私案を提出してみたい。
そして、この問いに対して同時に皆さまの私案を見聞きしてみたいというのが自分の願いです。
生放送を見送られた瞬間に、『ガンバ大阪-ベガルタ仙台』は編集可能なものへと成り代わったはずです。つまり、試合前のウォーミングアップから前半戦、ハーフタイム、後半戦へとリニアに続く時間の流れや、途中に起こるであろうアクシデントも含めた試合時間を、自在に切り貼り/伸縮できるコンテンツとなる。
このコンテンツをどのように編集し、組み上げるのか。
過去のサッカー番組、それも海の向こうの番組にヒントをもらいながら、しばし考察を続けていきたいと思います。


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ball.1 JリーグとTV放映(下)

以下に引くのは、大住良之氏による「「ダイヤモンドサッカー」とその時代」という
エッセイの中の一節です。
1968年より放送が開始された日本で初めての海外サッカー情報番組、「ダイヤモンドサッカー」(*当初の番組名は「イギリスプロサッカー」)。
まだプロリーグも無かった時代、日本に本場のサッカーを知らしめた伝説の番組として、その存在を見聞きしている方も多いことでしょう。
しかし、歴史的価値以外にも、同番組の中には今や忘れ去られた多くのアイデアがあったようです。
放送開始の時点から、「ダイヤモンドサッカー」が輸入し、番組内で用いたBBC(英)の試合映像について、大住氏はこのように感想を述べています。

BBCの編集は完璧だった。プレーを切ったようにはまったく見えないのに、二〇分余りで前半が終了してしまったのだ。その秘密は、ゴールキックとゴールキックの間をそっくりカットするという「マッチ・オブ・ザ・デイ」の発明による編集方法にあった。
シュートがゴールを外れる。観客席からゴールキーパーにボールが戻ってくる。ゴールキーパーがアップになり、ゴールキックが行われる・・・・・・。ところが、われわれが画面で目にするそのゴールキックは、五分以上も経た次のゴールキックなのだ。(『「ダイヤモンドサッカー」の時代』p34)


使用するボールの数が“ワンボール”から“マルチボール”へと移り変わった現在においても、
上記の編集方法は充分に適用可能なものでしょう。
そして、この編集方法にはLIVE感を損なうことなく、試合時間自体を短縮することができるという利点があります。
(中)で構成表を通して見てきたように、現在、Jリーグというコンテンツには試合すべてを放映できる時間の枠が与えられていないことが多い。
(*例えば、皆さまが、関西在住の“民放”しか観ることのできない視聴者であった場合、2011シーズン、テレビでガンバ大阪の試合を観戦できた数は34試合中6試合(うち録画が4試合)、セレッソ大阪の試合を観戦できた数は34試合中5試合(うち録画が3試合)しかありません*Jリーグ公式記録参照)
しかし、このようなJリーグコンテンツ不況の時代にこそ、上の手法は用いられるべきではないでしょうか。
大住氏の言葉を踏まえれば、この手法によって、一試合の放映時間は40分余りに短縮されるでしょう。
そして(仮に『ガンバ大阪-ベガルタ仙台』戦と同様)、ここに14分間のCM時間を足したとしても、合計は1時間にも満たない。
つまり、Jリーグのあらゆる試合を1時間の番組にパッケージ化して放映することができる。
また、「ゴールキックとゴールキックの間をそっくりカットする」という原理を使えば、その時間は45分にも、30分にも短縮することができるのです。


次にもうひとつ、実況の問題について簡単に触れておきたいと思います。
(中)で述べたように、MBS関西で放映された『ガンバ大阪-ベガルタ仙台』には
解説陣の実況が録画用に録り直されたものではなく、LIVE時に録音されたものであったため、
CM明けにどこからどこまでがカットされた時間なのか、いま何分から映像が再開されているのかがよく判らないという難点がありました。
しかし、この難点に対して、試合終了後に新たな解説陣を招き、録画用の新たな実況を吹き込めというのも野暮でしょう。時間的にも、経費的にもこのリクエストは困難を伴うに違いない。
というわけで、ここでは別のリクエスト、BBCの編集方法と連動した実況や放映のあり方を考案してみたいと思います。
選手紹介の前に放映する試合時間のタイムスケジュールを映す/読み上げること
両軍のゴールキック時には、必ず画面に時間表示を映すこと(そのつど解説陣はその時の試合時間をコールすること)
録画でも使うということを解説陣に伝えておくこと
①において、CM挿入の時間帯を紹介する必要はないでしょう。
CMを観たいか観たくないかという個々の趣向よりも、スポンサーによって番組が成立しているという事実を自分は尊重したい。
LIVE後の録画放送である以上、あくまでも何分から何分を切り取って放映することにしたのかという説明があれば個人的には充分に観戦しようという気持ちになれます。
(デジタル放送のページでいつでもタイムスケジュールを確認できれば、より利便性は高いでしょう)
また、②においてもそれは同様で、われわれは少なくとも100分の尺を要すJリーグのひと試合をこのように短縮/編集したのだ、という制作側からのタネ明かしがあれば、皆さまを含む、視聴者の側もより放送に没入できるのではないでしょうか。(③に関しては、「解説=プロフェッショナル」というテーマで、別の機会に言及したいと思っています)
さて、少々駆け足になりましたが、「JリーグとTV放映」というテーマに関する問題はここまでで幾つか用意できた気がします。
そして、この考察の動機のひとつでもありますが、現在、Jリーグを始めとする日本のサッカーを取り巻く環境には、まだまだ改善の余地があると言わざるを得ない。
代表だけに注目する“代表厨”、地元のクラブだけに感情を移入する“Jリーグ厨”・・・各々のスタイルは様々なれど、連日“民放”でサッカーを放映していない強豪国など世界には皆無です。
年中、テレビやラジオからサッカーが放映され、各地の街並みから各々のライフスタイルまでをもサッカーが左右する。カフェからバー、さらには家庭の中までもサッカーの話題が咲き乱れる。このような文化が根付いたとき、日本のサッカーは更に素晴らしいものになることでしょう。
その先駆けとして、現在、“民放”でひとつでも多くのJリーグコンテンツが放映されることは急務だと自分は感じています。


サッカーを日本の文化にしたくて走って来ました(三浦知良)


さて、こうしてさらってきた問題を踏まえた上で、『ガンバ大阪-ベガルタ仙台』というコンテンツの有り得たタイムライン、のべ90分間に渡る私案を、以下に提出して最後にしたいと思います。
そして、この私案に対して同時に皆さまの私案や意見を見聞きしてみたいというのが自分の願いです。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
①~4分:(CM)
②~9分:(試合前の映像)
スタジアム映像→前節までの結果&ハイライトシーン/解説陣の紹介→タイムスケジュール紹介→フォーメーション紹介
③~39分:(前半戦)
④~43分:(CM)
⑤~48分(ハーフタイム)
スタジアム映像→他会場の前半戦のハイライトシーン→前半戦のハイライトシーン
⑥~52分:(CM)
⑦~72分:(後半戦)
⑧~74分:(CM)
⑨~86分:(試合後の総括)
スタジアム映像→試合全体のハイライトシーン→解説陣によるポイント解説→他会場の試合全体のハイライトシーン→今後の日程について
⑩~90分:(CM)
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「ダイヤモンドサッカー」の時代
「ダイヤモンドサッカー」の時代

蹴球神髄―サッカーの名言集
蹴球神髄―サッカーの名言集