2012年5月8日火曜日

ク・ジャチョルのパンツ


一昨日の夜、ずいぶんとひさしぶりに
高橋悠治の『コレクション1970年代』を読み返した。
このアンソロジーは読むたびに趣が変わる。
特に第三章「生きるための歌」のよさは、
どれだけ頭を働かせてみても筆舌に尽くしがたい。
まるで、こちらの理解を跳ねのけるような
そんなしなやかさが、同氏の論理にはある。
例えば、次のような一節。

ここ百年ほどの日本の音楽は、ヨーロッパを向いている。ヨーロッパの感性・技術・美学を輸入して、国内向けの製品に加工するのが作曲家のしごとだ。その過程は加速され、洗練されて、ついにはヨーロッパへの加工製品の逆輸出さえ可能になった。日本の現代音楽は国際的水準に達したのだろうか。一体、〈国際的〉とは何か。現代日本の作曲家たちの活動原理は何か。(「個の論理を排す」)

「ヨーロッパ中心主義」への批判。
「密室の音楽批評」への批判。
同書の帯書きには、簡潔な言葉が添えられている。
だが、何度も読んでいるうちに、アタリマエのことに気付かされた。
これは「中心主義」への、「密室の批評」への批判書だ。
「ヨーロッパ」や「音楽」という飾りは接辞に過ぎない。

アウクスブルク 1-0 ハンブルガーSV(2012/05/05)


昨日の朝、以下のサイトの中で
http://footballingtube.blog93.fc2.com/
リンク先の動画を見つけた。
「35' [1 - 0] 具滋哲(ク・ジャチョル)」
動画の見出しはアジア人にとって興味を引くものだと思う。
(あるいは「細貝萌は先発フル出場」という小見出し)
だが、覗いてみてもイマイチ意味が掴み取れない。
ゴールのあと、自らのパンツを示し、天を指さしながら
ク・ジャチョルはなにをアピールしていたのか。
浮かんだ疑問を、そのまま後輩に尋ねてみた。

金東賢 http://www.facebook.com/miguel.kim.9 によると
ク・ジャチョルのパンツに書かれていたのは
「故人のご冥福をお祈りします(「고인의 명복을 빕니다」)」
というメッセージだったらしく、その故人というのは
同試合のちょうど一年前に謎の自死を遂げた
尹基源(ユン・ギウォン) http://bit.ly/imkMHZ というサッカー選手らしい。
(ク・ジャチョル自身は試合後のインタビュー http://bit.ly/KsF4Ng
メッセージには「3つの手向け先があった」と語っている)
生前、ユン・ギウォンには八百長の嫌疑がかけられており、
韓国内では自死の原因を八百長への関与に求める声も多かったそうだ。

昨日の昼、後輩から聞いた話をもとに
ユン・ギウォンの自死とク・ジャチョルのメッセージについて調べてみた。
ウィキペディアに中央日報、個人ブログと前者についてのソースは少なくない。
だが、どれだけ調べても、後者についての
(日本語の)ソースが見つからない。
まるで、ク・ジャチョルのアピールなどなかったかのような錯覚を、
日本のメディアは与えてしまっている。
言わば、韓国人プレーヤーが表した追悼の意よりも、
イタリア人プレーヤーの謝意やスペイン人監督の惜別の意を
(物語として)優先し報道する。
これが日本のスポーツメディアの現状である。
(“わたしもまたメディアである”)

調べたかぎり、Kリーグを覆う八百長の闇はかなり深い。
ウィキペディア http://bit.ly/qReMvg によると
八百長の嫌疑をかけられた監督/選手は
「「国民体育振興法」違反および詐欺罪で起訴され、
Kリーグからは永久追放も含めた厳しい処分」が課せられている。
(リンク先の「事件の経緯」にあるように、奇しくもユン・ギウォンの自死が
騒動のトリガーになったという見方も取れる)
そして、これらの騒動が決して過去のできごと=アクシデントではなく、
現在進行形のできごと=インシデントであることは言うまでもない。

昨日の夜、以下のサイトの中で
http://bit.ly/JbqWW5
前述の試合に関する記事を見つけた。
「2012年05月06日 00:55」
配信の日時は一昨日の深夜(試合の直後)、
ちょうど、わたしが『コレクション1970年代』を読み返していた頃だ。
(見出しは「細貝が今季のブンデス日本人選手最多の32試合に出場…
アウグスは3戦ぶり勝利」)
むろん、記事の中に先のアピールへの言及はない。
ヨーロッパで活躍する日本人選手、用いられているのは
いまや紋切り型と化したこの構図だけだ。
だが、読み進めているうちに、とあることに気が付いた。
記事の横に添えられた写真、それはたしかに
ク・ジャチョルのメッセージを捉えて(しまって)いる。
「故人のご冥福をお祈りします(「고인의 명복을 빕니다」)」










今日の朝、わたしはPCの前で
高橋悠治の『コレクション1970年代』を読み返していた。
このアンソロジーは読むたびに思考が整理される。
特に第三章内の「個の論理を排す」の鋭さは、
どれだけ強く構えてみても受け止めがたい。
ならば、いっそ逆らわず、その流れに身を預けてみよう。
いつしかそう思うようになった。
「ヨーロッパの感性・技術・美学を輸入して、
国内向けの製品に加工」する「作曲家」。
同氏が批判していたのは、彼らの「手口」に他ならない。

かれらの代表者が、「私たちの聴覚を拒む境界が地上にあろう筈はないのだから、西欧との対比というような低い意味合いにおいてでなく、民族の固有の感受性によって育った音楽を、新たなものとして聴くことが大事なのではあるまいか。」(武満徹)などと語るとき、ヨーロッパ資源の収奪の段階から、いまやヨーロッパ的技術輸出と見かえりにアジア文化を収奪しようとする段階に、日本の音楽がはいったのではないかとうたがうことができる。
「地上にひびくさまざまな声」を「ひとつの生命」の表現とするのは、すべてを私有しようとする資本主義的欲望の、よく知られた手口なのだから。(「個の論理を排す」)

◯◯◯は世界の共通語である、といった啓蒙。
このスローガンを盾とした「第三世界」への侵攻。
二つの行為が同時に実践されることを
(わたしは)戦争と呼んできたのではなかったか。
これらの「手口」に対抗する方法は
「古典的な戦術しかない」と同氏は続けている。

個の論理の追求のための集団のかわりに、集団の論理に立つ個の連帯、特に大衆との連帯、一方的な知識の収奪のかわりに、相互学習、孤高な権威のかわりに若い世代の指導する各世代の最良部分の結合、共有財の私有化のかわりに無名性の追求、技術への盲従のかわりに最小限の技術の最大の利用、進歩の名による古いものの延命のかわりに基本的諸関係の再検討。(「個の論理を排す」)

状況の確認と「戦術」の提案。
優れたコーチのような手つきで、同氏は「連帯」の実践を促している。
そして、ここまできて(またしても)アタリマエのことに気付かされた。
これは「中心主義」への、「密室の批評」への批判書だ。
接辞を選び、実践するのはわたし/あなたである、と。

現在、わたしはPCの前で
ク・ジャチョルのメッセージについて考えている。
相変わらず、彼のアピールに関する(日本語の)ソースは見つかっていない。
だが、現状を嘆くよりも筆を走らせる方がはるかに実践的であろう。
サッカーは世界の共通語である、このメルヘンにとって
隣国からの叫びはノイズに過ぎないのだから。
(このメルヘンが「中心主義」者によるフィクションであれば尚更に。
ユーゴスラビア人プレーヤーのアピールがどれだけ報道されたか思い出してみよう。
Ex. http://amzn.to/cnT3Lq

管見に触れるかぎり、Jリーグに携わる「作曲家」の質は相当に高い。
プロリーグ発足から20年余りで、これほどの「ヨーロッパ的技術輸出」を
行える国などそうそう見当たらないだろう。
しかし、それと同時に「技術」の進歩と収奪への欲望が
つねに表裏であることも見過ごしてはならない。
(具体名は伏せるが、すでに兆候は見えている)
「資本主義的欲望」の「手口」に乗らないこと。
「ビッグクラブ>スモールクラブ=プロヴィンチャ」といった
暗示に惑わされないこと。そのために
耳を傾けるべきは「第三世界」からの讃歌でも
ヨーロッパからの哀歌でもなく
隣国に捧げられた弔いの歌であろう。
「故人のご冥福をお祈りします(「고인의 명복을 빕니다」)」
その歌がメルヘンから逃れた時、きっと闇は消える。

韓国語ver.・・・http://sayonarahooligan.blogspot.jp/2012/05/blog-post_14.html
序文・・・http://sayonarahooligan.blogspot.jp/2012/05/blog-post_2508.html

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