2013年1月7日月曜日
“サポーター”への書き初め
サッカーを愛する皆さま、ご機嫌いかがでしょうか。
年初という行事のなか、自分はといえば名古屋の実家に省り
ひさびさにゆったりとした時間を過ごしてまいりました。
酒を酌み、節を祝う。毛布にくるまり、読みたかったマンガを読む。
年ごとの習慣も集う人びとや時期が変われば、いつもと異なるものとして映り、
立ち上がる。今までも-そして、これからも-そうだったのかもしれません。
例えば、以下のような一節でさえも。
バスケットブームといわれている今日この頃ですが(92年12月現在)、ちょっと気になることがあります。確かに街にはNBAのウェアがあふれ雑誌やTVのCMにNBAのスターが登場し、ストリートバスケットという言葉も聞くようになりました。でも日本のバスケは?日本のバスケ選手の名前がパッとでてきますか?今のバスケ熱が日本のバスケの強化につながることを願っています。(井上雄彦「スラムダンク#11」)
およそ20年ほど前の、現在の巨匠のひとことに
自分はふと日本のサッカーのことを想いました。
サッカーブームといわれている今日この頃ですが(13年1月現在)、ちょっと気になることがあります。確かに街にはBPLのウェアがあふれ雑誌やTVのCMにLa Ligaのスターが登場し、ストリートサッカーという言葉も聞くようになりました。でも日本のサッカーは?
13年1月、日本のサッカーに、現状に、この問いを突きつけることは野蛮か。
こんなことを-名古屋の片田舎でひとり-夜な夜なひっそりと考えていたのです。
遡れば。井上氏のことばの翌年、日本ではJリーグが開幕し、
ヴェルディ川崎が初代チャンピオンに輝きました。
(思えば、欧州連合/EUが発足したのも、北朝鮮がノドン1号を試射したのも、
自民党による55年体制が崩壊したのも93年でした)
また、のちに「ドーハの悲劇」と呼ばれる喜劇によって、
日本のナショナルチームがW杯への初出場を逃したのもこの年です。
このように多くの兆しに満ちた93年を-ひとまずの-エポックとして見定めたとき、
現在の日本のサッカーは、またそれを取り囲う状況はいかなるものとして
立ち上がるのか。年始めなので、的を絞って簡潔にいきましょう。
例えば、現在Jリーグには40ものクラブがあり(J1-18クラブ、J2-22クラブ)、
それぞれのクラブには、とうぜん各クラブを応援する“サポーター”がいる。
“サポーター”とひとことでいっても、その立ち振る舞いはじつに様々で
生活や魂のすべてを己のクラブに捧げ続ける“コアサポ”から、
たまには「おらが村」のサッカーでも観てみようという“ライトサポ”まで
スタジアム、あるいはテレビ画面の前には毎試合、
「有象無象」の“サポーター”が存立している/いた。
しかし、この本来「有象無象」であったはずの“サポーター”たちが
時とともに精鋭化し、反共化してきているというのが私の実感です。
マルクス/エンゲルスの定義を引くまでもなく、共産主義(コミュニズム)とは
私有財産制への抵抗を基調としたイズムです。
いわば、個人による対象の私有化を防ぎ、そのプロセスが生み出す盲目に
光を射し当てるものだといえる。
日本のサッカーに置き換えれば、ナショナルチームやクラブの私有化に抗し、
サッカー自体への愛(!)に向けて、世界の意識を変革しようと願うイズムです。
しかし、このイズムが「チーム愛」のひとことで片付けられているのが
現在の日本のサッカーを取り巻く状況ではないか。
無知による反共化、そして、そこには対象がサッカーである理由など実はひとつもないのではないか。
自民党の圧勝によって幕を閉じた昨年の衆院選。
憂い、追い払うべきは左翼の敗北でも国家主導の右傾化でもなく、
国民ひとりひとりの反共化なのだとわたしは思います。
そして、反共化のために「日の丸」や「対外思想」といった
装置がいとも簡単に、また迅速に表象に組み込まれることを
-われわれは-歴史から、文献から知ることができる。
コマーシャルが技術と結びついたとき、妖しさは容易にひとを狂わせてしまう。
そう、以下の一文のように、です。
今日、高須さんといっしょに午後から神田の松竹映画劇場にゆく。今日封切りの「ハワイ・マレー沖海戦」を見るためである。(中略)劇場はおそるべき満員で、最初の一回は立見席で殆ど見ることが出来なかった。二回目には落着いて見ることが出来た。これは東宝がその航空映画に於ける本領を最高度に発揮したもので、海軍航空隊の攻撃魂が完成するまでの訓練過程を淡々たる劇に仕組み、最後に壮絶なハワイ・マレー沖海戦を展開する。特に、ハワイ海戦に於て、オアフ島の山脈をかすめ翼をそろえて翔け下りてくるわが攻撃機、ことし正月の新聞に出た海軍航空隊撮影の歴史的写真と寸分変らぬセットの見事さ、白い航跡を曳いて走る魚雷の突進、噴き上る米太平洋艦隊、それから、乱雲の中を飛びつづける味方編隊の彼方を、訣別の手をふりつつ機尾から一条の白い煙を曳いて自爆してゆく悲壮な犠牲の一機―など、日本人の心を奮い起さずにはおかない傑作であった。(山田風太郎「戦中派虫けら日記」)
だからこそ、ではありませんが、一つの旗のもとに忠誠を誓うこと、
そして、そのことによって他人との対話や範疇外の対象に対する思考を
停止させてしまうことに-今年も-自分は警鐘を鳴らしていきたいのです。
「地元」や「他クラブへの敵対心/無関心」自体が「日の丸」や「対外思想」の
矮小化されたものに過ぎない。
世界を見ずに日本だけを見る、他クラブを追わずに地元のクラブだけを追う、
そして、サッカー/歴史とは遠く離れた場所で「私だけの唄」を唄う。
このような無意識の積み重ねの果てに戦争があるのだ、と。
こうした「飛躍」を叩き台とした対話を、毎晩どこかで誰かと続けていきたいのです。
罪なくして投獄せられる国家にあっては、正しき者の棲家は牢獄である、とトーローはいった。この言葉とはニュアンスが違うが、たしかにいま全世界は狂っている。毎日の新聞を、ふと眼を洗って見ると、真に愕然とさせられるものがある。狂え、狂え、狂え!地球を覆う嵐の中に聞こえるのは、ただこの声ばかりである。崇高な狂人の話が毎日狂熱的にのせられる。自分は狂っていないと考えるものは黙っている。何かものをいいたければ、必ず狂ったことをいわなければぶじではすまない世の中なのである。(山田風太郎「戦中派虫けら日記」)
93年のJリーグ開幕時、ある種の「有象無象」として、
ヴェルディ川崎(旧・読売サッカークラブ)や
ジェフユナイテッド市原(旧・古河電気工業/東日本JR古河)を
見守っていた“サポーター”はいまどこで何をしているのでしょうか。
また、横浜フリューゲルス(旧・全日空横浜サッカークラブ)の“サポーター”は。
20年という月日が経ったいま、紆余曲折を経て
当時応援していたクラブの変容/消失を目の当たりにした“サポーター”の
-日本のサッカーへの-回帰をわたしは待ち侘びています。
そして、最後にその動機のひとつが「東京ヴェルディ」や「ジェフユナイテッド千葉」の
J1復帰なのだと今いちど強調しておきたい。(次の夜の叩き台として)
明白な旗色を持たないもの、いわばサッカーを愛する「有象無象」=労働者による
変革を年初よりもう一度信じてみたくなったのです。
-Jリーグが始まったばかりのあの頃のように-
国に、地元に、そして、クラブに、
「狂え!」と呼びかける情勢に流されることなく、ただただ中立であり続けること。
日和見や静観ではなく、積極的にサッカーに関するすべてを求め続けること。
労働者は祖国をもたない。かれらのもっていないものを、彼らから奪うことはできない。(マルクス、エンゲルス「共産党宣言」)
「サッカーブーム」、「反共化」、「クラブ愛」。それらが形作られたものならば、きっと-また-変えられるでしょう。
2013.1.6 今年も宜しくお願いします。
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